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「耳なし芳一」や「雪女」などで知られる“明治の文豪”小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)。
晩年の避暑地として、焼津をこよなく愛し、毎夏を過ごしました。

明治の文豪・小泉八雲

焼津小泉八雲記念館提供

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、1850(嘉永3)年6月27日、ギリシア、レフカダ島で、アイルランド人の父とギリシア人の母との間に生まれました。

19才で単身アメリカに渡り、同地で20年間ジャーナリストとして活躍。1890(明治23)年にルポライターとして来日。来日後は英語、英文学講師として松江、熊本、東京などで教鞭をとる傍ら、日本に関する13冊に及ぶ著作を発表しました。

この間、1891(明治24)年、ハーンは松江の元士族の娘・小泉セツと結婚。1896(明治29)年、45歳で日本に帰化して「小泉八雲」となりました。
八雲は、日本の民話や古典の中の怪談を、セツの語りをとおして味わい、そこに自身の西洋的な文学アイディアを交えながら多くの怪談作品を手がけました。

1904(明治37)年9月26日に心臓発作のため54歳で死去しました。

小泉八雲と焼津

小泉八雲と妻・セツ(小泉八雲記念館提供)

小泉八雲は焼津の地を避暑地として気に入り、1897(明治30)年から1904(明治37)年までの晩年、6回の夏を過ごし、焼津にまつわる作品も数多く残しています。

小泉八雲が初めて焼津を訪れたのは、1897(明治30)年8月4日でした。
水泳が得意だった八雲は、夏休みを海で過ごすために、友人・田村豊久の紹介で、家族とともに舞阪の海を訪れました。しかし、八雲は遠浅の海で水泳には適さないと気に入らず、同地に一泊した後、田村の知人がいる焼津に向かうことを決めます。八雲は、焼津の深くて荒い海が気に入り、以後、浜通りの魚屋・山口乙吉の家の2階を借り、亡くなるまでほとんどの夏を焼津で過ごしました。

山口乙吉
乙吉だるま

(焼津小泉八雲記念館提供)

滞在先となっていた魚屋・山口乙吉との出会いは、八雲が焼津を気に入った大きな理由の1つでもありました。純粋で、開けっ広げで、正直者、そんな焼津の気質を象徴するような乙吉を八雲は“神様のような人”と語っていました。乙吉は八雲を”先生様”と呼び、八雲は乙吉を “乙吉サーマ”と心から親しく呼んでいました。

八雲は乙吉とのエピソードを「乙吉だるま」という作品に残しました。

八雲が描いた焼津海岸の絵(焼津小泉八雲記念館提供)
夏の焼津の海

普段はひたすら机に向って物書きに専念していた八雲は、焼津では長男の一雄に水泳を教えたり、山口乙吉たちと散歩に出かけてトンボを捕まえたり、焼津神社の荒祭を眺めて大喜びしたりと、のんびりと楽しい一時を過ごしました。作家・小泉八雲ではなく、家族を持つ父親としての小泉八雲が焼津にはありました。

八雲からセツ宛書簡(明治37年8月10日推定)
(焼津小泉八雲記念館提供)

妻のセツは、最初の焼津滞在の際に同行しました。2回目以降は八雲が焼津に滞在する間、セツは東京で留守番をし、八雲とは手紙のやり取りをしていました。八雲の手紙からはセツとの間にあった深い愛情が垣間見られます。
そして滞在の終わりころに八雲たちを迎えにセツも焼津を訪れ、楽しいひとときを一緒に過ごしました。

焼津市内の小泉八雲ゆかりの地

焼津小泉八雲記念館

焼津小泉八雲記念館では、八雲にゆかりのある品々を多数展示し、八雲が癒しの場として焼津の地を選んだ背景や焼津の人々とのふれあいを、時を超えた現代に伝えます。

八雲の碑(焼津駅前)

「小泉八雲像」と題した白御影石の碑の表に八雲の顔を彫ったレリーフと八雲の作品「焼津にて」の一節を刻んだ黒御影石がはめ込まれています。

小泉八雲風詠之地碑

1925(大正14)年、当時の焼津青年団が町役場前の旧東小学校玄関脇に建てたもので、その後、1984(昭和59)年に現在の場所に移りました。八雲についての説明板も設置されています。

八雲滞在の家跡の碑

八雲が夏の間、滞在した山口乙吉の家の跡。当時の家屋は1968(昭和43)年9月に明治村に移されたため、現在は「小泉八雲滞在の家跡」の碑が建つのみです。

浜通り(八雲通り)

八雲が逗留した乙吉の家のあった通り。八雲にちなみ「八雲通り」とも呼ばれています。 焼津の水産漁業発祥の地でもあります。

新波除地蔵

八雲が修復を願った首の取れた地蔵の代わりに地元の人々の浄財により、新しく作られた浪除け地蔵。

光心寺(旧浪除け地蔵)

焼津の堤防を散歩していた八雲は、首が取れた地蔵を見つけ不憫に思いました。息子・一雄の名前で新しい地蔵を作りたいと妻・セツに手紙を書きますが縁起が悪いと反対され断念します。 八雲が見つけた古い地蔵は取れた首をつけ、移転した現在の光心寺に納められています。

海蔵寺

八雲が焼津で取材した実話をもとに記した作品「漂流」に登場するお寺。荒れ狂う海で一枚の板子にしがみつき命を拾った主人公、天野甚助はその板子をいつも祈っている海蔵寺に奉納しました。(現在、板子は焼津小泉八雲記念館にて展示)

教念寺

八雲の焼津での散歩コースの一つ。八雲は乙吉に連れられ教念寺を訪れ、池の鯉を見たり、大松を眺めて「大変いい景色」と何度もほめました。

熊野神社

八雲と息子・一雄が乙吉、書生と訪れた際、乙吉と書生だけが昼でも暗い社の裏で、地面が火のように熱くなる体験をしましたが、八雲と一雄は何ともありませんでした。不思議がる八雲は、しきりに探索しましたが、結局何も発見できなかったというエピソードが残ります。

焼津神社

八雲の焼津での散歩コースの一つ。また八雲は毎年8月12、13日の大祭「荒祭」の神輿の渡御などを大変楽しみにしていました。町内で出す山車には進んで寄付をしました。

和田浜海岸

八雲は新屋の海が荒れていると波の静かな和田浜まで出かけて水泳をしました。また和田浜に行く途中、茶店「小川屋」でラムネを飲むことが、焼津での楽しみだったそうです。

浜当目海岸(当目の浜)

八雲が時折遊びに来た海岸。近くにうなぎ料理専門店があり、店に一日滞在しながら海水浴を楽しむこともあったといいます。

焼津×小泉八雲 お知らせ

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